unakowa's diary

子どもの質問に全力で答えるブログ

何故人間の雄は、若い雌を好むのか?

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どんな動物の雌だって雄を群基準の優劣で判断して、雄は健康で若い雌を選ぶんだから大体そうなるだろ なんでそんなことをいちいち小難しく考えるんだ 自然の摂理だよ

2017/06/11 12:03

b.hatena.ne.jp

どんな動物の雄も若い雌を選ぶというブコメがあった。
反論!とかではなく、自分は動物行動学の専門家ではないが、遺伝子を残すことを考えると若い雌はリスクが大きいのではないだろうかと純粋に疑問に思ったので、ネットで少し調べてみた。

結果、やはり人間以外の動物は、むしろ自分の遺伝子を後世に残す確率を上げやすいベテランの雌を好む傾向があるらしい。
https://srad.jp/submission/25679/

では、なぜ人間だけ若い雌を好むのか?については、ネットの情報を読んでいくと2種類の仮説がたてられそうだ。

1つは「親の投資理論による影響」。
これは、人間は子供を養育するため雌だけでなく雄も一定期間子どもへの投資期間が発生する。
雄雌双方による配偶者防衛も働くため一夫一妻制になり、雄は自分の遺伝子を残す確率が上がる若い雌を、雌は投資を期待できる年上の雄を求めるという説。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13134583218

ただ、これだと同じ一夫一妻制の鳥類も同じ傾向がないと矛盾するが、鳥類では年上の雌が好まれるらしい。

2つ目は「家父長制による影響」。
家父長制では群れの長(父親)が子ども世代の繁殖に必要な資源も管理する。
自分の群れに迎えるのは若く子がいない雌のほうが、当てがった男子Aが死んだ後群れの別の男子Bにあてがうこともできて有利である。

ということで、若い雌を好む人間は、本能というよりは長く続いた家父長制による社会的価値観で好んでいると思われる。

ちなみに「親の投資理論」で言うと、子育てにより多くのコストを負う性がもう片方の性に対し、より選択的になるらしい。
つまり卵子を作り、腹の中で育て出産し、母乳を与えるというコストを払う人間の雌は雄に対し、雄が雌を選ぶより強く選ぶことになる。
実際、人間も遺伝子研究から、雄の方がより選択されてきた性であることが分かっているらしい。

話が逸れたが、やはり自分がコメントで書いた通り、家父長制による考え方から抜け出せればいいんじゃない?という結論になりました。

 

ーーーこの辺を読みましたーーーー

「動物における配偶者選択研究の動向」http://ci.nii.ac.jp/naid/120006030962
「誰を選ぶのか? なぜ惹かれるのか? : 配偶者選択の進化心理学的研究に関するレビュー」http://ci.nii.ac.jp/naid/120005269108
「性別、自己評価、関係期間が配偶者選択の基準に及ぼす影響 : 日本人サンプルにおける追試」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006425324
(進化と人間行動:書評)http://www.ywad.com/books/667.html
(適応行動論:講義メモ?)https://todai.info/sikepuri/search/show.php?id=1785

 

何故「お米の中に神様がいる」はOKなのに「水からの伝言」はだめなのか。

因果応報という考え方があります。
悪いことをすると罰があたり、善い行いをすると良いことがあるという考え方です。
ある人の調査によると現実の世界は必ずしも因果応報というわけではないそうですが、こう考えると皆が安心して暮らせるので昔から広く普及しています。

この因果応報という考え方を使って、
「おへそを出していると雷様に取られる」
「お米を残すとお米の中の神様のバチがあたる」
など、子どもに望ましい行いを促そうと嘘のお話をする人がたくさんいます。

これらは『迷信』と呼ばれています。また、似ているものに『おまじない』というのもあります。
「痛いの痛いの飛んでいけ」や「悪い夢を見たら枕を3回たたいて裏返したらもう大丈夫」などです。
「痛みを取ったからもう痛くない」など、因果(原因と結果)をつけて気持ちを落ち着かせようとするものです。

一方、ここ10年ほど前から一部の学校で広まっている「水からの伝言」という思想があります。汚い言葉をかけた水は汚い結晶になるので、きれいな言葉を使いましょうと子どもたちに教えているそうです。

「迷信」と「水伝言」の似ているところと違うところはどこでしょうか。

似ているところは、科学的に嘘とされる因果で大人が望む行動を子どもに取らせようとしているところ。違うところは根拠の場所です。「迷信」は精神世界に根拠を置くのに対し「水伝言」は科学に根拠をおいています。

私は、現在の科学では嘘だと認知されていることを科学的な事実として因果応報の根拠に使うことには2つの問題があると考えています。

1つ目の問題は、科学への信頼感を失う危険性があることです。
科学とは、正しいかどうかが客観的に判断できるものです。
なので「科学的に正しい」と判断されたことは、少なくとも今の科学レベルにおいては「正しい」わけです。
ですが、その分野の専門家でない人にとって、それが本当に「科学的に正しい」かどうか判断・確認するのはとても面倒で大変なので、専門家が「××は科学的に正しい」と言えば信じる傾向があります。
もちろん科学の発展によって後日間違いだったと訂正されるものもありますが、科学の権威を共有する社会に私たちは生きているわけです。ところがそれに嘘が混じっているとなると、何を信じていいかわからなくなります。
真面目に科学に取り組んでいる人たちにとっては迷惑な話です。

2つ目の問題は、子どもたちへの強制力の強さです。
上で書いたように、現代社会では、科学的に正しいことを多くの大人も子供も「正しいもの」として扱います。
一方で精神世界の妖怪や鬼は、少し知恵がついた子どもは作りごとだと反論します。
迷信で行動を諭される子どもたちは、少し大きくなると「鬼なんか来ないよ」と反発しつつ、徐々に迷信の背後にある親や共同体の価値観を自分の中に取り込んでいきます。
もちろん子どもは自らの経験で育んだ独自の価値観と照らし合わせて、大人の価値観を拒むことも可能です。

科学風の嘘で行動を諭される子どもたちは、その自己決定のゆとりは持てません。
科学の権威を疑うか、言われたことを逡巡せず飲み込み思考を止めるかになります。

社会や共同体の価値観を受け継ぐことは意義のあることですが、時代と共に社会の価値観は変わり、人はそれに適応する必要があります。
なので、価値観を次世代が受け継ぐとき、無条件に思考を停止して受け入れるやり方は社会の環境への適応力を阻害すると思うのです。

だから私は、子どもに悪い言葉を使わせたくなければ「悪い言葉を使うと口が曲がるよ」ぐらいがちょうどいいのではないかと思うのです。

 

1/2成人式

日本の多くの小学校で1/2成人式というものをやっているらしい。

自分が子どもの時分にはなかったから、比較的新しい学校行事なのだと思う。

10歳というのは特別な年齢である。
脳科学的にも発達心理学的にも、子どもと大人の転換期であるというのが定説である。
つまりその身体のうちに、子どもと大人の視点を同時に兼ね備えている稀有な年齢である。

その年齢の子どもたちに、自分の成長歴と、自分が大人になった状態を考えさせ、成人までの残りの10年間を有意義に過ごすための気付きを与える機会は、是非多くの子どもたちに与えてあげたいと思う。

だが、多くの小学校で1/2成人式は、子から親への感謝を述べる場になっているようだ。

1/2成人式に出席する保護者は、子どもたちの親への感謝の作文を延々聞くことになる。
感謝の対象は、日々の食事の支度、掃除、就労による家計収入がほとんどだ。

果たしてそれらは本当に子どもが感謝すべきことなのだろうか?
「ご飯を作ってくれてありがとう」「家をきれいにしてくれてありがとう」
というフレーズは『自分(子ども)は家事サービスを受ける側である』という前提を置いて語られている。

家族の定義は幅広いが、仮に日々の生活を営む集団を家族というならば、そこで必要になる仕事は、各メンバーの力量に応じて分配される。
不公平に仕事を免除されているメンバーがいるとしたら、それは身分階級の上位者か、集団のメンバーとして認められていない存在だ。
子どもが家族の中でそのどちらの場合でも不幸なことに変わりはない。

確かに1/2成人式に合わせ学校からお手伝い指導があった。
だが、残念ながら子どもたちに『これからは、家族の一員として家庭運営の一端の役割と責任を担う』意識を持たせることは難しかったようだ。
先生方の苦労がしのばれるが、家庭内の指導もまた同様に難易度が高い。
アンケートによると、ほとんどの子どもたちが何らかの「お手伝い」を日常的にしているのだ。

「親に言われたからやる」お手伝いから「家族の一員としての責任からやる」お手伝いに意識が変わるのは、社会性の発達レベルによる。
わが子も含め多くの子どもたちの社会性は10歳という年齢に相応しい状態になっているのだろうか。

  

 

 

 

 

どうして鼻血はすぐ出るのに、耳血は珍しいのか

鼻血が出やすい体質の人はわりといます。

ときどき鼻の中をほじっていて鼻血が出てしまう人もいますね。
急にたくさん血が出るとびっくりしますが、たいていの場合は病気ではありません。
でもお医者さんによると、病気のサインのときもあるそうなので、あまり何度も鼻血の出る人は一度検査してみてもいいかもしれません。

一方、耳から血をたらたら流している人は滅多に見かけません。
もし見かけたら安静にさせて、急いで救急車を呼んだ方がいいでしょう。

なんで鼻血はよく出て、耳血は滅多に出ないんでしょうか?

鼻も耳も体の中につながる大事な場所ですが、鼻の穴の中は、外から入ってくるばい菌や悪いものを粘液で外に押し流せるよう粘膜で潤っています。
この粘液が鼻水です。鼻水を作り出すには水分が必要です。
多分ですが、鼻の穴は、水分を血管やリンパ管からもらいやすいよう、皮膚のすぐ裏を血管が流れていて、皮膚の厚さもとても薄くなっているのではないかと思います。
だから、少しの刺激で皮膚と血管が破れて鼻血が出るのではないでしょうか。

逆に耳の穴の中は、しっとり耳あかの人はいますが、それでも鼻の穴のように潤っていません。
耳から耳汁も出てきません。

耳汁を出さないなら、耳の中は鼻の中よりも皮膚と血管の距離を離し、皮膚も厚く丈夫にすることができます。
それで、ちょっと耳かきでこすったぐらいでは耳から血が出ないのではないかと思います。

でもなんで、鼻は鼻水でばい菌を防いでいるのに、耳からは耳汁が出ないんでしょう?
ごみやばい菌が入ると困るのは鼻の穴と同じなのに不思議ですね。

考えられる理由の1つは、鼻は息を吸うときに使うので、耳の穴よりばい菌が入ってきやすいからかもしれません。
でもこれだけだと、お尻の穴も粘膜で守られていることが説明できません。

もう一つ考えられるのは、音を聞くために粘液が邪魔になるのかもしれません。
音は耳の奥にある鼓膜に空気の振動として伝わります。
空気の振動を伝える耳の穴の中が潤っていると、うまく振動が伝わらないのでしょう。

なぜ食べ物にはいろんな味があるのか

食べ物の味は、舌の上にある味蕾という器官が感じることが出来ます。
味蕾が感じて脳に伝えることが出来る味は塩味、甘味、酸味、苦味、旨味の5種類だと言われています。

人間は生きていくのに必要なエネルギーを、主に食事で体に取り入れます。
食べ物が簡単に手に入らなかった時代、必要な食べ物を見つけるのは大変なことでした。

前に食べたことがある物が見つかれば良いのですが、そうでない場合、試しに齧って、その味で食べられるかどうか判断する必要がありました。

甘いとお砂糖のようにカロリーが高い食べ物。塩っぱいとミネラル分が豊富。苦味があると毒か薬。酸味はまだ食べるのに早い果物や腐ってるもの。旨味はアミノ酸

というように、自分に必要な食べ物かどうか味で推定することが出来ると、生き残りやすくなります。

こんな風に、味覚は、昔は人間が生き残るために必要な感覚でした。

今は味覚は食事を楽しむために使われることが多いですが、昔のように、自分に必要な食べ物を判断するために使うことも忘れてはいけないと思います。

疲れた時に酸っぱいものが食べたくなる人は多いですが、体に必要なモノを体は味覚を通じて教えてくれるように思います。

近い未来、地球上に食べ物がなくなることも心配されています。

虫を食べることになるという人もいますが、虫以外にも、今まで食べていないものを食べる時代が来てもおかしくありません。

そんな時代が来たとき、自分に必要な食べ物を見つけて生き残るために、味覚の力を大事にしていきたいですね。

鳥箱先生とフウねずみ

自分が読んだことのない宮沢賢治の小品で子どもが感想文を書こうとしていた。

気になったので読んでみたら、あまりのブラックさに驚いた。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1947_7225.html

主人公の鳥箱先生はある時唐突に自分を教育者と思いこむ。

一方、自分の支配下にはいった4羽のヒヨドリに対し『教育』を与えることもなく、必要な世話も義務も怠り不幸な最期を迎えさせる。

ねずみのフウが次の生徒になってしまったのは、その母親が鳥箱先生の嘘権威を盲信したためだった。その結果、息子であるフウは猫に殺されることになる。

最後の猫のセリフはこう。

『先生もだめだし、生徒も悪い。先生はいつでも、もっともらしいうそばかり云っている。生徒は志がどうもけしつぶより小さい。これではもうとても国家の前途が思いやられる。』

暗すぎる。

文中に書かれているフウの志は確かに低かったかもしれない。一方、周囲の大人の志が低いのに、子どもの志だけ高いなんてまずない。

この小品が書かれたのがいつかは知らないが、今の時代に通じる薄暗さを感じる。
それで猫は誰なんだ?

安保法案の噛み合わなかった議論をふりかえる


安保法案の話はもう流行らないと思うけど、この夏日本中で議論がかみ合わなかった気持ち悪さを消化するために書いてみる。

あの法案を巡っては、賛成派が反対派を互いに「○ヨクはなんて感情的でお花畑なんだ!」と○に左右どちらを入れても成り立つ文章で批判しあっていたのが馬鹿々々しかった。

なんでそんなことになったのか。
それは、人によってあの法案が「なに」かの理解が違ったからじゃないかと思う。

日本国内には集団的自衛権を巡ってa~fまで何種類か意見がある。

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a.防衛力のために日本を普通に戦争出来る国にしたいという人たち。小林よしのりとかはここに入ると思う。
b.集団的自衛権は持ちたいし出来れば改憲したほうがいいけど、難しいなら無理やりでも天皇を中心とした神の国を作りたい人たち。現憲法を重視しない日本会議の人たち。
c.国際協力のためにPKOは必要だけど自衛隊改憲して出したほうがいいと思う人たち。
d.PKOのための集団的自衛権はなんちゃって集団的自衛権なんだから憲法解釈で十分と思ってる人たち。
e.PKOなんかやっても日本のためにならない、個別自衛権を強化すべきと思ってる人たち。徴兵制賛成。多分少数派。
f.9条に書いてる個別的自衛権以外だめでしょ、という人たち。共産党の人たち。

ここで、あの法案の集団的自衛権は①なのか②なのかが問題になる。
今回の法案に賛成する人はbとdしかいないわけだが、dの中でも、この法案が①だと思った人や①か②かはっきりしないので法に不備があると思った人は除外される。

本当は改憲したほうがいいと思うけど法案は賛成派は、話がややこしくなるのでbかdにじっとしててもらうとすると、あの法案に賛成な人は
bの日本会議の思想にシンパシーがある人
dでこの法案はPKO用に決まってるでしょという人
しかいない。

bの(彼らのファシズム思想に共感しない人からは基地外に見える)発言を省くと、賛成派の知識層はdのPKOでしょ派で、彼らの発言の背景は「この法案が①だと思うなんて法案を読んでないだろ」「②だと思って反対してるんなら現実どうする気だ。お花畑だな」「このぐらいで改憲しろだなんて手続きばっかり重視しすぎだろ」という意識だと思う。

実際、彼らの「この法案は②」という理解は原則正しいと思う。

だけど一方彼らは、法案が①か②かはっきりしてなくて①の可能性を払拭できない点を軽視している。

それは、彼らがbに対する恐怖心(嫌悪感)が弱いからだ。

fの共産党のように多様な意見の持ち主はもちろんいるが、過去のPKO派兵で大きな反対運動が起きなかったことからもわかるように、多数派はdであろう。そのdにいる人たちが、bへの恐怖心(嫌悪感)の強さで2つに分かれた。

bを恐怖する人は、①ではないとはっきりしていないのでイヤ。

bに何も感じない人は、普通に考えて②でしょ。なのでOK。

世論が紛糾したのは、賛成派が反対派の「bはイヤ!①なのか②なのかはっきりしろ!」という恐怖心を理解出来ず、フツウの安保法制の論点ばかり議論していたためだと思う。

海外メディアが「この問題は国民の現政府への信頼感のなさからくる」と報道していたのが正しいと思う。政府が「②だよ。他に使わないよ」と宣言すれば何も紛糾しなかったものを、残念ながら現政権はbの政権。不安感をあおる発言が多発された。