unakowa's diary

子どもの質問に全力で答えるブログ

『菊と刀』~日本の文化とは何か?

今、国ごとの文化的特色は徐々に失われつつあるように思います。

インターネットを通じて、遠い国の若者たちが何に夢中になり何を楽しんでいるのか、ほぼリアルタイムに伝わり、彼らの感性や考え方に影響を受け、こちらの文化も相手に影響を与え、世界の文化均質化が進んでいます。

日常生活でも、先進国を中心に、どの国でもある程度似通った社会インフラが普及し、スーパーで生鮮食品をカードで支払い、キオスクやコンビニでバーコードで支払い、電子マネーで電車やバスに乗る事が出来ます。

おかげでどこの国を訪れても、数週間程度の滞在なら異文化に驚く機会はあまりありません。

むしろ今の日本人は、70余年前に発行された『菊と刀』に描かれている日本文化の方に、より異文化味を感じるのではないでしょうか。

この本の中で筆者のルイス・ベネディクトは、夏目漱石の「坊ちゃん」を使って、日本人の恩の考え方を「相手を片われと思うからこそ借りた金は返さない。返すなんて寧ろ相手に失礼だ。」と説明しています。
あなたは、この坊ちゃんの考え方を理解できますか?
ルイス・ベネディクトが日本人の本質と考えた「義理と人情」の精神は、現代の日本ではもう残っていないかもしれません。

一方で、この「義理と人情」の精神を、現代でも持ち続けている国があるようです。

小川さやかさんという人が書いた「「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~」には、仲間内での金の貸し借りについて、現代タンザニア人が、この「坊ちゃん」に似た精神性を持っている事が書かれています。

「義理と人情」の精神が成立するには、その人たちが商売をする影響範囲が狭いことが必要になると思います。
鎖国時代の日本のように、商売の範囲が国内だけに閉じていると、今のグローバル資本主義の「稼げるだけ稼ぐ」という考え方で商売すると大変なことになってしまいます。一部の人だけが大儲けして、同じ共同体に属する人は生きていけないぐらい貧乏になってしまったらお客様もいなくなります。商売自体が成り立たなくなってしまうのです。
商売の範囲が閉じられているときは、出来るだけ市場が長く続くように利益をみんなで分け合う工夫が必要です。

ある程度儲けたら仲間と利益を分け合い、頼まれたらお金を貸し、貸した金は取り立てない。返してもらわなくても、自分が必要なときに貸してもらえばいいのです。
タンザニアのように、仲間意識が強い狭い商売の範囲で暮らす人々は、100年前の日本と似た義理と人情の精神を持ち合わすようになるようです。

では、グローバル資本主義社会で生きる私たちの社会には、日本人が古来から受け継いできた「日本的な精神」はもう存在しないのでしょうか?

私は、本当の「日本的な精神」というのは、ベネディクトが考えた「義理と人情」ではなく、アミニズム文化なのではないかと思っています。

アミニズムというのは、分かりやすく言えば、「となりのトトロ」や「もののけ姫」の世界観です。自然への畏怖と愛と共生を中心とする考え方です。

西行世阿弥芭蕉と、日本を代表する文化人は、自然への強い愛着を共通して持っています。また「原日本の精神風土」(久保田展弘)に書かれた「ムスヒ信仰」と呼ばれる、何かを結び合わせることで新しい命を生む力になるという考え方も、今も日本にも影響を与える精神文化の一つだと思います。

一方で、アミニズムには負の側面もあります。
人間の思いのままにならない自然の意思を、巫覡と呼ばれる神(自然や祖霊)との対話者を通じて聞き取り、対立せず共生していく。
この考え方は自然と、巫覡たちに犠牲、重い責任と役割を要求します。
自然との対話を担う巫覡たちがその責任から解放されるのは、自然と対話が上手くできず役目を降ろされるときだけで、自分の幸せを追求して生きることは許されません。アミニズムというのは巫覡が社会の犠牲になることで成り立つ精神文化だと言えます。

日本の精神風土の源と言われる久高島の神人(女性たち)は、島人(男性たち)のためにだけに祈り、自らの幸福のための祭は行いません。
現代の巫覡の長である天皇にも自らの幸福権の追求は認められていません。

巫覡が自分を犠牲にして社会のために尽くすことで、その他の人たちは安心して生きることが可能になるのがアミニズムの考え方です。

柳田国男と言う民俗学者が調査した明治の頃の日本には、各地の小さな共同体の中に、巫覡の役割を持つ人たちがたくさんいたようです。
当時は、巫覡の役割を持つ人たちは、自分を犠牲にさせられる代わりに一定の生活が保障されていました。
でも、今はそういう考え方もなくなってしまっています。

理不尽な犠牲を求められる巫覡を担う存在は今後も共同体の中に現れるのでしょうか。
もし誰も巫覡の役割を担わなかったとき、犠牲者を失った共同体がアミニズムの精神文化を維持し続けられるのでしょうか。
日本がアミニズムを失うとき。それが本当の日本らしさが死に絶えるときかもしれません。

そんなことを「天気の子」を観ながら考えました。