unakowa's diary

子どもの質問に全力で答えるブログ

何故「お米の中に神様がいる」はOKなのに「水からの伝言」はだめなのか。

因果応報という考え方があります。
悪いことをすると罰があたり、善い行いをすると良いことがあるという考え方です。
ある人の調査によると現実の世界は必ずしも因果応報というわけではないそうですが、こう考えると皆が安心して暮らせるので昔から広く普及しています。

この因果応報という考え方を使って、
「おへそを出していると雷様に取られる」
「お米を残すとお米の中の神様のバチがあたる」
など、子どもに望ましい行いを促そうと嘘のお話をする人がたくさんいます。

これらは『迷信』と呼ばれています。また、似ているものに『おまじない』というのもあります。
「痛いの痛いの飛んでいけ」や「悪い夢を見たら枕を3回たたいて裏返したらもう大丈夫」などです。
「痛みを取ったからもう痛くない」など、因果(原因と結果)をつけて気持ちを落ち着かせようとするものです。

一方、ここ10年ほど前から一部の学校で広まっている「水からの伝言」という思想があります。汚い言葉をかけた水は汚い結晶になるので、きれいな言葉を使いましょうと子どもたちに教えているそうです。

「迷信」と「水伝言」の似ているところと違うところはどこでしょうか。

似ているところは、科学的に嘘とされる因果で大人が望む行動を子どもに取らせようとしているところ。違うところは根拠の場所です。「迷信」は精神世界に根拠を置くのに対し「水伝言」は科学に根拠をおいています。

私は、現在の科学では嘘だと認知されていることを科学的な事実として因果応報の根拠に使うことには2つの問題があると考えています。

1つ目の問題は、科学への信頼感を失う危険性があることです。
科学とは、正しいかどうかが客観的に判断できるものです。
なので「科学的に正しい」と判断されたことは、少なくとも今の科学レベルにおいては「正しい」わけです。
ですが、その分野の専門家でない人にとって、それが本当に「科学的に正しい」かどうか判断・確認するのはとても面倒で大変なので、専門家が「××は科学的に正しい」と言えば信じる傾向があります。
もちろん科学の発展によって後日間違いだったと訂正されるものもありますが、科学の権威を共有する社会に私たちは生きているわけです。ところがそれに嘘が混じっているとなると、何を信じていいかわからなくなります。
真面目に科学に取り組んでいる人たちにとっては迷惑な話です。

2つ目の問題は、子どもたちへの強制力の強さです。
上で書いたように、現代社会では、科学的に正しいことを多くの大人も子供も「正しいもの」として扱います。
一方で精神世界の妖怪や鬼は、少し知恵がついた子どもは作りごとだと反論します。
迷信で行動を諭される子どもたちは、少し大きくなると「鬼なんか来ないよ」と反発しつつ、徐々に迷信の背後にある親や共同体の価値観を自分の中に取り込んでいきます。
もちろん子どもは自らの経験で育んだ独自の価値観と照らし合わせて、大人の価値観を拒むことも可能です。

科学風の嘘で行動を諭される子どもたちは、その自己決定のゆとりは持てません。
科学の権威を疑うか、言われたことを逡巡せず飲み込み思考を止めるかになります。

社会や共同体の価値観を受け継ぐことは意義のあることですが、時代と共に社会の価値観は変わり、人はそれに適応する必要があります。
なので、価値観を次世代が受け継ぐとき、無条件に思考を停止して受け入れるやり方は社会の環境への適応力を阻害すると思うのです。

だから私は、子どもに悪い言葉を使わせたくなければ「悪い言葉を使うと口が曲がるよ」ぐらいがちょうどいいのではないかと思うのです。