unakowa's diary

子どもの質問に全力で答えるブログ

『この世界の片隅に』のセリフの変更について

この世界の片隅に』のセリフが原作と映画で大きく変更された件について、いくつかの記事を読んだ。諸々の意見が出ているが、以下の2点でコメントしたくなったので書いてみた。

  1. 当時の若い主婦として違和感のない発言だったのか
  2. 物語として、どちらの台詞が適切なのか


2については、自分は映画を1回しか見たことがないので、他の台詞も変えることで上手につなげているという指摘があるかもしれないと思っている。

 

1.当時の若い主婦として違和感のない発言だったのか

片渕監督はインタビューで台詞を変更した理由について「ほとんどの人がどうも大義とか正義で負けたとは思ってなくて、単純に科学力と物量で負けたっていう悔しさがあるとしかいっていなくて……。」という点を上げている。

自分は小学校の宿題で、祖母と祖父と大叔母に、それぞれ戦争が終わったときの気持ちを聞いた。
3人とも、周作やすずより少し年上だが、ほぼ同年代といっていいと思う。
そのうち「悔しさ」があったと述べたのは祖父だけだった。ちなみに祖父は満州終戦を迎えた。
祖母は「安堵感」を、大叔母は「虚無感」を、強く表現したことを覚えている。

祖母と大叔母、同年代の女二人の気持ちを分けたのは、戦争で犠牲になったものの大きさだったと思う。

祖母は終戦時、彼女の子供らは全員生きていた。夫の訃報は届いていなかったし、実際、時間はかかったが生きて帰ってきた。
大叔母は、夫が戦死し、子どもは、生まれつき弱かったのか1歳を迎えず死んだ。
彼女の実家は都会だったので、空襲で実家の家族はほとんど死んだそうだ。

大叔母は終戦時について「今まで信じて辛抱してきたものが変わってしまって、ずいぶんと気を落とした人も多かったんだよ」と言った。

戦争という暴力に理不尽に大切なものを奪われ、それでも、みんなで頑張らないといけないんだと思って耐えてきた。
戦争が終わったと言われても、もう自分には、頼れる夫も実家も子どももいない。

すずは、大好きな絵を描く右手を失い、晴美を死なせ、婚家での居場所を失いかけた。原爆で実家はみんな死んだと覚悟している。
すずの心情は大叔母のそれにだいぶ近いのではないか。

「今まで信じて辛抱してきたもの」を「正義」と表現した人は少ないだろうが、戦争が終わって「何のために自分は耐えたのか」と感じた人は一定数居たのではないだろうか。

また、n=2で恐縮だが、祖母と大叔母の言葉から考えると、当時の市井の女たちは在日朝鮮人への差別的待遇を、ごく自然に見聞きし、そういうもの(仕方ない社会の仕組み)として受け入れていたようだ。
一方、それはそうでも可哀想だなと思うことも、たまにあったらしい。

なので、終戦の知らせを聞いて喜ぶ在日朝鮮人を見たら、彼女らもなんらか感じたろうと思う。


2.物語として、どちらの台詞が適切なのか

戦争の重さは、水原の兄の死、実兄の死、空襲の死体を見慣れてしまう自分への違和感と、徐々にすずの心情にのし掛かってくる。

幼なじみの水原は、すずに「普通であって欲しい」と言う。
家が貧乏で海軍兵学校に入った兄も、兄の代わりに海軍に入って国を守る自分も、婚家を守るすずも「普通の営み」で正しいことだという。

水原に言われずとも、すずもまた、普通の営みを実直に行うことが善であるという規範を自分の中に持っている。
婚家が焼ければ出て行けるのにと妄想しつつ、焼夷弾の火に我に返り、必死で家を火事から守る。

その規範を頼りに、戦争による理不尽に耐え、やがて大きな犠牲を払った後は「暴力には屈しない。普通の営みを守りぬく」という彼女の中の正義に昇華する。

その心情は、鷺を追って掃射する戦闘機を睨み付けるシーンや、「暴力には屈しない」という彼女の台詞で表現されている。

彼女の使う「正義」は大日本帝国の正義や大義とは違う。彼女の家族、友人、愛する人たちの普通の営みを守ることが彼女の「正義」なのだ。

ただ、1で書いたように、すずは、当時の在日朝鮮人にも彼らなりの普通の生活があることを、また彼らが差別的待遇を受けていることもごく普通に知っていたはずだ。
一方自分とは関わりのないコミュニティは意識外においていただろう。しかし彼らが日本の敗戦で喜ぶ様を見たら、自分の正義と彼らの正義が相反していたことを理解したろう。太極旗の描写は、それを表現するためだったはずだ。

この流れで物語を解釈すると、映画の台詞は、なぜ食糧自給の話が唐突に出てくるのか違和感がある。

映画「ああ、海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんでできとるんじゃなぁ、うちは。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかねぇ。ああ、なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁ。」

 

原作「ああ、暴力で従えとった言うことか。じゃけえ暴力に屈するということかね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ…」

なぜ彼女の考える正義(普通の営みを守ること)が暴力に屈しないといけなかったのか。それが国力差だと理解したとする映画の台詞では、すずの感じた苦痛が弱まってしまうと思うのだ。


映画の台詞はこちらから引用させて頂いた。

『この世界の片隅に』の太極旗シーンに感じる違和感を整理してみた - 読む・考える・書く

『菊と刀』~日本の文化とは何か?

今、国ごとの文化的特色は徐々に失われつつあるように思います。

インターネットを通じて、遠い国の若者たちが何に夢中になり何を楽しんでいるのか、ほぼリアルタイムに伝わり、彼らの感性や考え方に影響を受け、こちらの文化も相手に影響を与え、世界の文化均質化が進んでいます。

日常生活でも、先進国を中心に、どの国でもある程度似通った社会インフラが普及し、スーパーで生鮮食品をカードで支払い、キオスクやコンビニでバーコードで支払い、電子マネーで電車やバスに乗る事が出来ます。

おかげでどこの国を訪れても、数週間程度の滞在なら異文化に驚く機会はあまりありません。

むしろ今の日本人は、70余年前に発行された『菊と刀』に描かれている日本文化の方に、より異文化味を感じるのではないでしょうか。

この本の中で筆者のルイス・ベネディクトは、夏目漱石の「坊ちゃん」を使って、日本人の恩の考え方を「相手を片われと思うからこそ借りた金は返さない。返すなんて寧ろ相手に失礼だ。」と説明しています。
あなたは、この坊ちゃんの考え方を理解できますか?
ルイス・ベネディクトが日本人の本質と考えた「義理と人情」の精神は、現代の日本ではもう残っていないかもしれません。

一方で、この「義理と人情」の精神を、現代でも持ち続けている国があるようです。

小川さやかさんという人が書いた「「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~」には、仲間内での金の貸し借りについて、現代タンザニア人が、この「坊ちゃん」に似た精神性を持っている事が書かれています。

「義理と人情」の精神が成立するには、その人たちが商売をする影響範囲が狭いことが必要になると思います。
鎖国時代の日本のように、商売の範囲が国内だけに閉じていると、今のグローバル資本主義の「稼げるだけ稼ぐ」という考え方で商売すると大変なことになってしまいます。一部の人だけが大儲けして、同じ共同体に属する人は生きていけないぐらい貧乏になってしまったらお客様もいなくなります。商売自体が成り立たなくなってしまうのです。
商売の範囲が閉じられているときは、出来るだけ市場が長く続くように利益をみんなで分け合う工夫が必要です。

ある程度儲けたら仲間と利益を分け合い、頼まれたらお金を貸し、貸した金は取り立てない。返してもらわなくても、自分が必要なときに貸してもらえばいいのです。
タンザニアのように、仲間意識が強い狭い商売の範囲で暮らす人々は、100年前の日本と似た義理と人情の精神を持ち合わすようになるようです。

では、グローバル資本主義社会で生きる私たちの社会には、日本人が古来から受け継いできた「日本的な精神」はもう存在しないのでしょうか?

私は、本当の「日本的な精神」というのは、ベネディクトが考えた「義理と人情」ではなく、アミニズム文化なのではないかと思っています。

アミニズムというのは、分かりやすく言えば、「となりのトトロ」や「もののけ姫」の世界観です。自然への畏怖と愛と共生を中心とする考え方です。

西行世阿弥芭蕉と、日本を代表する文化人は、自然への強い愛着を共通して持っています。また「原日本の精神風土」(久保田展弘)に書かれた「ムスヒ信仰」と呼ばれる、何かを結び合わせることで新しい命を生む力になるという考え方も、今も日本にも影響を与える精神文化の一つだと思います。

一方で、アミニズムには負の側面もあります。
人間の思いのままにならない自然の意思を、巫覡と呼ばれる神(自然や祖霊)との対話者を通じて聞き取り、対立せず共生していく。
この考え方は自然と、巫覡たちに犠牲、重い責任と役割を要求します。
自然との対話を担う巫覡たちがその責任から解放されるのは、自然と対話が上手くできず役目を降ろされるときだけで、自分の幸せを追求して生きることは許されません。アミニズムというのは巫覡が社会の犠牲になることで成り立つ精神文化だと言えます。

日本の精神風土の源と言われる久高島の神人(女性たち)は、島人(男性たち)のためにだけに祈り、自らの幸福のための祭は行いません。
現代の巫覡の長である天皇にも自らの幸福権の追求は認められていません。

巫覡が自分を犠牲にして社会のために尽くすことで、その他の人たちは安心して生きることが可能になるのがアミニズムの考え方です。

柳田国男と言う民俗学者が調査した明治の頃の日本には、各地の小さな共同体の中に、巫覡の役割を持つ人たちがたくさんいたようです。
当時は、巫覡の役割を持つ人たちは、自分を犠牲にさせられる代わりに一定の生活が保障されていました。
でも、今はそういう考え方もなくなってしまっています。

理不尽な犠牲を求められる巫覡を担う存在は今後も共同体の中に現れるのでしょうか。
もし誰も巫覡の役割を担わなかったとき、犠牲者を失った共同体がアミニズムの精神文化を維持し続けられるのでしょうか。
日本がアミニズムを失うとき。それが本当の日本らしさが死に絶えるときかもしれません。

そんなことを「天気の子」を観ながら考えました。

「ティール組織」という本を読んで思ったこと

人は集まると組織を作ります。

この本は、人が作る色々な組織の特徴について書いた本です。

筆者は組織を7つのタイプに分類していますが、その中でも、一番新しいのがティール組織です。

読むのが少し難しい本ですが、将来、ティール組織が社会にたくさん増えた時代に、そういう組織で働くということは、みんなにとって実は結構大変なことなんじゃないかと思ったので、紹介したいと思います。

この本によると、人間社会の進化に合わせて組織の形も進化してきたそうです。筆者は組織のタイプにイメージしやすいよう色の名前も付けています。

 古い順に組織のタイプを書き出すと下記の7つです。

 1)無色: 原始的な少人数の組織

2)マゼンタ(赤紫)色 神秘的組織: 数百人程度の原始的な宗教で結びついた組織

3)レッド(赤)色:衝動型組織: トップの人がメンバーを力で支配する組織

4)アンバー(琥珀)色:順応型組織 軍隊のように階層を重視する組織

5)オレンジ色:達成型組織 機械のように目標達成を求める組織

6)グリーン(緑)色:多元型組織 最近のIT企業に多い社員の多様性を重視する組織

7)ティール(青緑)色:進化型組織 生き物や生態系のような組織

人間は概念が理解できないと、その存在が見えていても認知出来ない生き物なので、ティール組織もインターネットの普及で「分散した知性」という概念が理解されたため認知されるようになった組織だそうです。

今、日本にあるほとんどの会社はオレンジ型の組織です。

オレンジ組織は、機械に例えられるだけあって、戦後の高度経済成長期のように、皆でやらないといけないことが分かりやすくて、働く人がどんどん増えていった時代には向いていたと思います。

でも、最近はその問題点の方が指摘されるようになりました。
オレンジ組織の問題点は、恐怖の力を使って組織を管理するため、働く人が恐怖で疲れてしまって長期的には生産性が落ちてしまうことです。

現代は、昔と違い、誰かが疲れてしまっても、代わりの働く人がすぐに見つかる時代ではありません。

また、機械化が進んでいて、もっと生産性を上げるには単純労働ではない人間の創意工夫が必要ですが、恐怖に囚われている人からは新しいアイディアは出にくいものです。

ではグリーン組織でもいいのでは?と思いますが、この本ではグリーン組織の問題点として、組織の上の人の負担が大きいことをあげています。

ティール組織は、「自主経営(セルフマネジメント)」「全体性(ホールネス)」「存在目的」という3つのキーワードで説明されています。

「自主経営(セルフマネジメント)」は、一人ひとりが自分の頭で考えて一番良いと思う行動をとることです。

「全体性(ホールネス)」は、職場でも家庭でも、同じ一人の人間として振舞い、他の人のそれも受容するということです。

「存在目的」は、その組織が存在する社会的な意義を持ち続けるということです。

自主経営は、京セラという会社がやっているアメーバ組織に似ています。一人ひとりがプロ意識を持ってやれば、当然組織全体の生産性は高くなると思います。これに全体性を合わせると、まるでフリーランスで働く人たちの集合体のような組織がイメージ出来ます。

そして存在目的ですが。

社会的に存在する意義がない会社は、会社の仕事と役割を変えるか、無くなった方がいいという考え方があります。事業継続性という会社が長く続いていくことが大事だと考える言葉と逆の考え方かもしれません。

ティール組織では、存在目的がなくなったら、そして新しい存在目的がすぐ見つからないのなら、恐らく解散するのでしょう。

ここまで読んで、ティール組織をどう思いましたか?

自分を押し殺さず、脅されず仕事ができる環境は確かに魅力的ですね。その代わりに、働く人は個としての自律とプロ意識を求められます。

好むと好まざるに関係なく、これからは徐々に「個の自律と他との協調」という能力が求められる時代に移っていくように思います。

個の自律で一番大事なことは、自分が幸せになるために自分のやりたいことにチャレンジするということです。

でも、心が元気でないと自分の本当にやりたいことはわかりにくいものです。だから、大人になった時に困らないよう、今から時々、自分は今何にチャレンジしたいのか自分に聞いてみる時間を作ってみてください。

そして、なるべくそれにチャレンジしてみてください。

うまく行っても行かなくても、それが大人になった時、役に立つと思いますよ。

何故人間の雄は、若い雌を好むのか?

女性が直面する「稼ぐほど結婚できない」現実 | ソロモンの時代―結婚しない人々の実像― | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

どんな動物の雌だって雄を群基準の優劣で判断して、雄は健康で若い雌を選ぶんだから大体そうなるだろ なんでそんなことをいちいち小難しく考えるんだ 自然の摂理だよ

2017/06/11 12:03

b.hatena.ne.jp

どんな動物の雄も若い雌を選ぶというブコメがあった。
反論!とかではなく、自分は動物行動学の専門家ではないが、遺伝子を残すことを考えると若い雌はリスクが大きいのではないだろうかと純粋に疑問に思ったので、ネットで少し調べてみた。

結果、やはり人間以外の動物は、むしろ自分の遺伝子を後世に残す確率を上げやすいベテランの雌を好む傾向があるらしい。
https://srad.jp/submission/25679/

では、なぜ人間だけ若い雌を好むのか?については、ネットの情報を読んでいくと2種類の仮説がたてられそうだ。

1つは「親の投資理論による影響」。
これは、人間は子供を養育するため雌だけでなく雄も一定期間子どもへの投資期間が発生する。
雄雌双方による配偶者防衛も働くため一夫一妻制になり、雄は自分の遺伝子を残す確率が上がる若い雌を、雌は投資を期待できる年上の雄を求めるという説。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13134583218

ただ、これだと同じ一夫一妻制の鳥類も同じ傾向がないと矛盾するが、鳥類では年上の雌が好まれるらしい。

2つ目は「家父長制による影響」。
家父長制では群れの長(父親)が子ども世代の繁殖に必要な資源も管理する。
自分の群れに迎えるのは若く子がいない雌のほうが、当てがった男子Aが死んだ後群れの別の男子Bにあてがうこともできて有利である。

ということで、若い雌を好む人間は、本能というよりは長く続いた家父長制による社会的価値観で好んでいると思われる。

ちなみに「親の投資理論」で言うと、子育てにより多くのコストを負う性がもう片方の性に対し、より選択的になるらしい。
つまり卵子を作り、腹の中で育て出産し、母乳を与えるというコストを払う人間の雌は雄に対し、雄が雌を選ぶより強く選ぶことになる。
実際、人間も遺伝子研究から、雄の方がより選択されてきた性であることが分かっているらしい。

話が逸れたが、やはり自分がコメントで書いた通り、家父長制による考え方から抜け出せればいいんじゃない?という結論になりました。

 

ーーーこの辺を読みましたーーーー

「動物における配偶者選択研究の動向」http://ci.nii.ac.jp/naid/120006030962
「誰を選ぶのか? なぜ惹かれるのか? : 配偶者選択の進化心理学的研究に関するレビュー」http://ci.nii.ac.jp/naid/120005269108
「性別、自己評価、関係期間が配偶者選択の基準に及ぼす影響 : 日本人サンプルにおける追試」http://ci.nii.ac.jp/naid/110006425324
(進化と人間行動:書評)http://www.ywad.com/books/667.html
(適応行動論:講義メモ?)https://todai.info/sikepuri/search/show.php?id=1785

 

何故「お米の中に神様がいる」はOKなのに「水からの伝言」はだめなのか。

因果応報という考え方があります。
悪いことをすると罰があたり、善い行いをすると良いことがあるという考え方です。
ある人の調査によると現実の世界は必ずしも因果応報というわけではないそうですが、こう考えると皆が安心して暮らせるので昔から広く普及しています。

この因果応報という考え方を使って、
「おへそを出していると雷様に取られる」
「お米を残すとお米の中の神様のバチがあたる」
など、子どもに望ましい行いを促そうと嘘のお話をする人がたくさんいます。

これらは『迷信』と呼ばれています。また、似ているものに『おまじない』というのもあります。
「痛いの痛いの飛んでいけ」や「悪い夢を見たら枕を3回たたいて裏返したらもう大丈夫」などです。
「痛みを取ったからもう痛くない」など、因果(原因と結果)をつけて気持ちを落ち着かせようとするものです。

一方、ここ10年ほど前から一部の学校で広まっている「水からの伝言」という思想があります。汚い言葉をかけた水は汚い結晶になるので、きれいな言葉を使いましょうと子どもたちに教えているそうです。

「迷信」と「水伝言」の似ているところと違うところはどこでしょうか。

似ているところは、科学的に嘘とされる因果で大人が望む行動を子どもに取らせようとしているところ。違うところは根拠の場所です。「迷信」は精神世界に根拠を置くのに対し「水伝言」は科学に根拠をおいています。

私は、現在の科学では嘘だと認知されていることを科学的な事実として因果応報の根拠に使うことには2つの問題があると考えています。

1つ目の問題は、科学への信頼感を失う危険性があることです。
科学とは、正しいかどうかが客観的に判断できるものです。
なので「科学的に正しい」と判断されたことは、少なくとも今の科学レベルにおいては「正しい」わけです。
ですが、その分野の専門家でない人にとって、それが本当に「科学的に正しい」かどうか判断・確認するのはとても面倒で大変なので、専門家が「××は科学的に正しい」と言えば信じる傾向があります。
もちろん科学の発展によって後日間違いだったと訂正されるものもありますが、科学の権威を共有する社会に私たちは生きているわけです。ところがそれに嘘が混じっているとなると、何を信じていいかわからなくなります。
真面目に科学に取り組んでいる人たちにとっては迷惑な話です。

2つ目の問題は、子どもたちへの強制力の強さです。
上で書いたように、現代社会では、科学的に正しいことを多くの大人も子供も「正しいもの」として扱います。
一方で精神世界の妖怪や鬼は、少し知恵がついた子どもは作りごとだと反論します。
迷信で行動を諭される子どもたちは、少し大きくなると「鬼なんか来ないよ」と反発しつつ、徐々に迷信の背後にある親や共同体の価値観を自分の中に取り込んでいきます。
もちろん子どもは自らの経験で育んだ独自の価値観と照らし合わせて、大人の価値観を拒むことも可能です。

科学風の嘘で行動を諭される子どもたちは、その自己決定のゆとりは持てません。
科学の権威を疑うか、言われたことを逡巡せず飲み込み思考を止めるかになります。

社会や共同体の価値観を受け継ぐことは意義のあることですが、時代と共に社会の価値観は変わり、人はそれに適応する必要があります。
なので、価値観を次世代が受け継ぐとき、無条件に思考を停止して受け入れるやり方は社会の環境への適応力を阻害すると思うのです。

だから私は、子どもに悪い言葉を使わせたくなければ「悪い言葉を使うと口が曲がるよ」ぐらいがちょうどいいのではないかと思うのです。

 

1/2成人式

日本の多くの小学校で1/2成人式というものをやっているらしい。

自分が子どもの時分にはなかったから、比較的新しい学校行事なのだと思う。

10歳というのは特別な年齢である。
脳科学的にも発達心理学的にも、子どもと大人の転換期であるというのが定説である。
つまりその身体のうちに、子どもと大人の視点を同時に兼ね備えている稀有な年齢である。

その年齢の子どもたちに、自分の成長歴と、自分が大人になった状態を考えさせ、成人までの残りの10年間を有意義に過ごすための気付きを与える機会は、是非多くの子どもたちに与えてあげたいと思う。

だが、多くの小学校で1/2成人式は、子から親への感謝を述べる場になっているようだ。

1/2成人式に出席する保護者は、子どもたちの親への感謝の作文を延々聞くことになる。
感謝の対象は、日々の食事の支度、掃除、就労による家計収入がほとんどだ。

果たしてそれらは本当に子どもが感謝すべきことなのだろうか?
「ご飯を作ってくれてありがとう」「家をきれいにしてくれてありがとう」
というフレーズは『自分(子ども)は家事サービスを受ける側である』という前提を置いて語られている。

家族の定義は幅広いが、仮に日々の生活を営む集団を家族というならば、そこで必要になる仕事は、各メンバーの力量に応じて分配される。
不公平に仕事を免除されているメンバーがいるとしたら、それは身分階級の上位者か、集団のメンバーとして認められていない存在だ。
子どもが家族の中でそのどちらの場合でも不幸なことに変わりはない。

確かに1/2成人式に合わせ学校からお手伝い指導があった。
だが、残念ながら子どもたちに『これからは、家族の一員として家庭運営の一端の役割と責任を担う』意識を持たせることは難しかったようだ。
先生方の苦労がしのばれるが、家庭内の指導もまた同様に難易度が高い。
アンケートによると、ほとんどの子どもたちが何らかの「お手伝い」を日常的にしているのだ。

「親に言われたからやる」お手伝いから「家族の一員としての責任からやる」お手伝いに意識が変わるのは、社会性の発達レベルによる。
わが子も含め多くの子どもたちの社会性は10歳という年齢に相応しい状態になっているのだろうか。

  

 

 

 

 

どうして鼻血はすぐ出るのに、耳血は珍しいのか

鼻血が出やすい体質の人はわりといます。

ときどき鼻の中をほじっていて鼻血が出てしまう人もいますね。
急にたくさん血が出るとびっくりしますが、たいていの場合は病気ではありません。
でもお医者さんによると、病気のサインのときもあるそうなので、あまり何度も鼻血の出る人は一度検査してみてもいいかもしれません。

一方、耳から血をたらたら流している人は滅多に見かけません。
もし見かけたら安静にさせて、急いで救急車を呼んだ方がいいでしょう。

なんで鼻血はよく出て、耳血は滅多に出ないんでしょうか?

鼻も耳も体の中につながる大事な場所ですが、鼻の穴の中は、外から入ってくるばい菌や悪いものを粘液で外に押し流せるよう粘膜で潤っています。
この粘液が鼻水です。鼻水を作り出すには水分が必要です。
多分ですが、鼻の穴は、水分を血管やリンパ管からもらいやすいよう、皮膚のすぐ裏を血管が流れていて、皮膚の厚さもとても薄くなっているのではないかと思います。
だから、少しの刺激で皮膚と血管が破れて鼻血が出るのではないでしょうか。

逆に耳の穴の中は、しっとり耳あかの人はいますが、それでも鼻の穴のように潤っていません。
耳から耳汁も出てきません。

耳汁を出さないなら、耳の中は鼻の中よりも皮膚と血管の距離を離し、皮膚も厚く丈夫にすることができます。
それで、ちょっと耳かきでこすったぐらいでは耳から血が出ないのではないかと思います。

でもなんで、鼻は鼻水でばい菌を防いでいるのに、耳からは耳汁が出ないんでしょう?
ごみやばい菌が入ると困るのは鼻の穴と同じなのに不思議ですね。

考えられる理由の1つは、鼻は息を吸うときに使うので、耳の穴よりばい菌が入ってきやすいからかもしれません。
でもこれだけだと、お尻の穴も粘膜で守られていることが説明できません。

もう一つ考えられるのは、音を聞くために粘液が邪魔になるのかもしれません。
音は耳の奥にある鼓膜に空気の振動として伝わります。
空気の振動を伝える耳の穴の中が潤っていると、うまく振動が伝わらないのでしょう。